クリダマ

「クリダマ」とは「クリームチーズのダマ」の略。ブログ開設時たまたまレアチーズケーキを作っており、何も考えずに冷蔵されていたクリームチーズを使ったらダマになってしまった。レアチーズケーキを作ろうと思わなければ、おそらくダマになることなんて知らなかったろうに。そういう感じのブログ。

哀犬

PLUTOを読んで感傷的になっている今日この頃。

 

カラパイヤで留守番中の犬の動画が紹介されていた。

 

観ていて非常に悲しかった。

 

何の因果で誰もいない部屋に一人ぼっちにされるのだろうか?

 

一体何のために。。

 

実家の犬の悲しい声を思い出した。

 

彼を飼いたてのときたまたま家族が出かけていった。

 

私はリビングのソファで居眠りをしていた。

 

私に気づかなかったのだろう、可愛そうなその犬はいつもとは違う、悲しい吠え方をした。

 

その遠吠えに似た悲しい声に私はびっくりして思わず彼の名前を呼んだ。

 

今その老犬は家族が準備を始めると、それを察し寝っこけてしまう。

 

それは悲しみを通り越した何かを感じさせるものだ。

 

悲しみを積み重ねて彼ができあがっている。

 

留守番犬の悲しみはその悟りきったように眠る姿からにじみ出ている。

サービス

帰りにららぽーとから直通バスに乗った。

そしたら、運転手さんがめちゃめちゃ笑顔だった。

運転手さんの他のそれとは大違いでキラキラしていた。

アナウンスも懇切丁寧で気遣いに溢れていた。

発車してからこんなアナウンスをしていた。

ららぽーとからの直通のバスなのでこれから乗車されるお客様はございません。座席を広くお使いください」

これはなかなか言わない文句だなあと思った。

空いていたので隣の座席に荷物を置いた。

バス停が近づくと

「風が強いので、バスお降りの際にすぐ傘を開かれますと壊れる恐れがございます」

実際に今日あったのかもしれないけれど、細かいところによく気が付くなあと思った。

そんな運転手さんに頭を下げようとしていると

「滑りやすくなっております。足元お気をつけ下さいね」

とどこまでも気が利く人だった。

自分が会った運転手さんの中で一番丁寧だった気がする。

帰りに名前を聞いていこうかと思ったくらい感動した。

 

家に帰る途中、中華料理屋で遅いお昼を食べた。

ここには週1くらいの頻度で通っているので、向こうも顔を覚えていると思う。

ランチタイムは過ぎていたので店のお姉さんはお絞りの補充をしていた。

注文するとこちらに一瞥もくれないで厨房にオーダーしていた。

常連だからか、中国ではそんな感じなのかわからないがチェーン店ではありえない対応だ。

だが、俺はこれで全然いいなと思った。

自分が従業員ならばあんなマニュアルじみたことしたくないから。

でも、正直日本人の店員だったら、なにその態度?って思ったかもしれない。

支払いのときもお昼休憩中だったらしく口をもごもごしながらやってきた。

別になんとも思わなかったが店の都合もあるので、できるだけこの時間より早く来たほうがいいなと思った。

 

そんな帰り道、2つのことを思った。

 

1つは、なんだか運転手さんのサービスが過剰気味に思えてしまったこと。

でも仏頂面な人ならこんないい気分にはならなかっただろうし、今度からは電車じゃなくてバスで帰ろうって気になったから、本当にいいサービスなんだろうな。

自分はお客様は神様なんてこれっぽっちも思えない器の小ささなので、そういうサービスをしていたらいつかおかしくなるだろうと思う。

てか、サービスってのをマニュアル的にこなされるから過剰にみえるのかもなあ。

運転手さんは必要なことを適切に伝えてるだけだし。

 

 もう1つは、日本人以外からのサービスって悪くても全然苦にならないなってこと。

国際結婚した人が

「もともと文化から何から違うからすれ違いがなくていい」

とおっしゃっていた。

下手に言葉が通じると、「わかってもらえる」という錯覚が生じるんだとか。

思うに日本人であるだけで結構なことを要求されてると思う。

「これくらいできて当たり前」とか。

ひっかかりなくやりとりするって大切だけどさあ、どうなんだろね。

それこそ器の小ささを露呈する話だよなあ。

でも疲れてるときとか自分がテキトーな扱い受けたらそれはそれで腹立つんだろな。

 

 

相手が必要としているものを適切なタイミングで提供すること

 

これがサービスってわけだな。

これ以外は不愉快に思う人がいても仕方ないサービス。

不必要なサービスは自分の首を絞める。

客へ無駄にヘコヘコした結果、「お客様」が生まれたんじゃなくて?

偉そうだとか、態度が悪いとか抜かす「お客様」はどれほど偉いんだか。。

同情する必要もないんだろうけど、満たされない人が多いんだろな。

自分は中華料理店並の接客で全然かまわない。

 

 

奥のテーブルでお昼休憩してた店員さんたちへ。

でもやっぱり食事中のゲップはやめてほしいと思ったよ。

 

コーヒールンバ!


井上陽水 コーヒー・ルンバ - YouTube

 

先日千葉で古い喫茶店をみつけたのです・・・

 

 建物が醸し出すレトロな空気に誘われて特にコーヒーが好きなわけでもないのにふらり店に入る。年季の入ったドアをぎいと押して中に入ると、なるほど昔ながらの喫茶店の趣である。右手にテーブル席、左手にはカウンター。席数は20くらいか。テーブル、椅子も相当使い込まれたものだ。テレビがついているが店の人はいないようだ…と思ってカウンターに目をやると白髪の男性が頭を垂れて座っていたのだ。その様子が刑事モノでみたとある場面に重なって「第一発見者!?」と一瞬ヒヤッとしたが、お腹が上下に微かだが動いていたので寝ているのだとわかって安心した。目を覚ます様子もなく、カウンター奥のレジが少し開いていたのを遠目で確認して「今日は終わったのか、もう17時半だし」と判断したが、カウンターの不思議な物体に興味を奪われて動けなくなってしまった。それは理科の実験に使うフラスコやビーカーのようなもので、数個あるフラスコには水が入れられており、そのうち一つはカウンターから突き出たバーナーで熱せられていたのだ。おそらくコーヒーをいれるものだろうとは察しが着いたが果たしてどう使うのか…気になるところだったので遅い昼寝をしている店主を起こすかどうか2分ほど迷った。次の予定もあったのでまた出直すかとドアを引いて外に出た。窓から中をみると眠そうなマスターがこちらをみていた。起こしてしまったなら戻るしかないと思い、「まだやってますか?」と聞くと「やってますよ」と若干気だるそうにして返した。

 「こちらへどうぞ」と先ほどの加熱されているフラスコの前に案内された。私は椅子に腰掛け無言でフラスコをみていた。気のよさそうな店主はメニューを持ってきてくれた。コーヒーの欄には「ソフトタイプ」「ストロングタイプ」と普段喫茶に行かない私には見慣れないものがあった。「ソフトタイプください」「はい」店主はビーカーとフラスコを組み合わせコーヒーを淹れはじめた。

 ビーカーに挽いたコーヒーをいれる。ビーカーには下に試験管のようなものがついており、それをフラスコに組み合わせる。ビーカーに少し湯をいれ、フラスコを加熱すると驚くべきことに湯が試験管を通り、ビーカーの方へ上って行くのだ。上った湯はコーヒーを煮出す。頃合いをみて店主が火を消すと煮出された液体コーヒーはフラスコへ降りてくる。上りきらなかった湯と混じる。どうやらこれで完成のようだ…店主はコーヒーカップに出来上がったコーヒーを注いでいく。「どうぞ」コーヒーカップは勢いよく香りを立てている。「コーヒーは香りを愉しむもの」という言葉が頭をよぎり、その香りをするりと吸ってみた。私は鼻があまりよくないのだが「いい香り」だとハッキリ認識した。

 そんなことをしていると「今日は寒いですね」と店主。最初は気候の話題から入るのは鉄板だなあと思いながら「そうですね」と相槌。適当に相槌を打っていたら地球温暖化で日本の気候がおかしいという話題になった。そんなとき、店主と同じくらいの歳の男性客が入ってきた。カウンターにどっかり座ると「ブレンドコーヒー。いや、水出しコーヒーあるっ?」「ありますよ」フラスコたちのとなりにある巨大な砂時計のようなものを指差す。私はそれまでこれがコーヒーを淹れるものだとはわからなかったのだ。「でもアイスしかできません」「んならブレンドコーヒーで」「わかりました」またビーカーとフラスコ操作しはじめる。その様子を刻々とみつめていると「理科の実験みたいでしょ?」店主はにこやかな表情で言った。そしてまた熱湯が遡上する。これがなんとも不思議なのだ。「これはサイフォン式。コーヒーの淹れ方にはドリップとサイフォンの2通りがあるんですよ」店主の解説をはじめた。サイフォン式の方は一人分ずつしか淹れられないが、ドリップ式は5、6人分淹れてしまえるので酸化させやすいということらしい。その辺のチェーンのコーヒーは煮出されて時間が経っていることが多いのだとか。「酸化したコーヒーを飲むために砂糖とミルクをたっぷり入れてみんな胃を悪くしている。コーヒーがダメだった人が一度うちのを飲んだら常連になってしまった」店主は教えを説くように言った。そして水出しのコーヒーを振舞ってくれた。「よくみてください。コーヒーってのは本来こうやって琥珀色に透き通っているものなのです。黒かったり、濁っているコーヒーを飲めば身体を悪くするに決まっています」安いものがお得と最近言われるが本当に得なのか考えたほうがいいと店主は言っていた。確かにドリンクバーのアイスコーヒーで胸焼けを起こしたことがあった。そのコーヒーに比べこの店で飲んだアイスコーヒーは嫌なクセがなく驚いた。そんな話を聞くうちに時間が来たので「また来る」と心の中でつぶやき店を出た。

今またあの店のコーヒーが飲みたくて仕方がないのだ。まるでコーヒーに恋してしまったかのようだ。

団地でDAN!RAN!

今年のマイベストソングはこれですね

めちゃめちゃ元気になります!

アニメも放映中。今季イチオシのアニメです。

 
TVアニメ「団地ともお」PV - YouTube

団地でDAN!RAN! [feat. キヨサク (MONGOL800)]

団地でDAN!RAN! [feat. キヨサク (MONGOL800)]

  • 怒髪天
  • Rock
  • ¥250

 

マイベストソング2013〈今年の1曲でiTunes Cardを当てよう! 私のマイベストソング2013♪〉

コップの水

コップに水が入っている。

今回はよくある半分「しか」とか「も」とかいう話ではない。

一度にどれだけを口に含むのがいいのかという話である。

 

少し前にコップにジュースを入れて飲んでいたら、

のどごしに「心地よい量がある」ということに気づいたのだ。

 

まずわたしのデータをみてみよう

※常温の水道水の場合

 

口に含める最大量:100cc

一回に嚥下する量:15~20cc

 

個人差はあるがこんなもんなのではないか?

一度に楽に嚥下できるを「至適嚥下量」と言うらしい。

(医療・介護の現場などでは重要なことだろう、窒息などの危険があるから。)

これが炭酸だったりアルコールだったりすればまたデータは違うのだろう。

 

今回は常温の水道水について考えてみる。

おそらく至適嚥下量を保ちつつ飲むと心地よいと感じると思う。

これを超える量を飲み下すのは不快だし、下手をすればむせたりする。

ここからは主観なのだが、至適嚥下量を飲んだ後に微妙に口に液体が残っているのは不快な気がする。

嚥下量をあまり変えずに最後の嚥下には至適嚥下量で飲みきりたい。

つまり、20ccの倍数程度口に含んでいる必要がある。

ということは最大が100ccだから

20,40,60,80ccということになりそうだ。

※100ccは口から飛び出そうなほどなので除外。

また、20ccでは飲める量が少ないので除外。

 

40,60,80ccから選ぶことになった。

実際に飲んでみると・・・

80ccだが口をハムスターのようにしなくてはならないのでこれも除外だった。

妥当なのは40ccか60cc。

ただ60ccでも口に含むには「入れすぎたかな」感がある。

口に含む一番心地よい量は50ccだったからだ。

したがって一度に口に含む最適な量は40ccということになる。

 

一般にごくごく飲む場合には今回のように「一度に口に含んでから飲む」というのはしないかもしれないが参考にしてほしい。

まあ参考にならないムダ知識だ。

 

ひとつ気をつけてほしいのは普段意識しないことを意識してやると上手くいかないということだ。

飲んでいる最中に息をしてしまってむせたりしないよう注意してほしい。

 

 

水飲みすぎて辛いです。

感情に関するあれこれ

「自然な」感情なんてものがあるとはわたしは思わないのだ

ふと湧き上がる感情というものの存在は認めた上での話ではあるが

 

人間の行動は感情が原動力であったりする

人に褒められてうれしかったこと

怒られていやだったこと

ひとりぽっちでつらかったこと

 

そういうことが積み重なって自分の行動、ひいては生き方が作られていくのだろう

 

そこでわたしは思ったのだ

抱いた感情は「誰かにつくられたものではないのか」ということを

そう思った瞬間に人生に冷めてしまったのだ

 

突然だがわたしの昔話

大学1年のとき授業に行かずギャルゲーをやっていた

ギャルゲーには泣きゲーというジャンルがある

それなりにボリュームがあったのでアパートにひきこもってボロボロ泣きながらやっていたのだが、疑問に思うことがあった

 

「何故泣いているのだろうか?」

「何故感動しているのだろうか?」

「そもそも感動とは何だろうか?」

 

感動させるにはパターンがある

つまり、導きたかった結論を言えば「感動はつくれる」ということである

 

極論、自分で考えて行動しているはずが、特定の感情を抱く経験をすることでその感情に支配される

そういうことが義務教育でなされていたのではないかと考え始めた

 

「力をあわせる」

「団結」

「なかよく」

 

こういった言葉が非常におそろしいものに感じられた

 

しかしながら、「教育とはこういうものなのではないか」という理解をもてたのは幸いだ

社会においても、みんなで協力する人間が多い方がいいような気がするし

他人が同じ体験で同じ感情を持っていると分かれば安心する

 

それでもこの合理性に疑いを持たないのは間違いであると言っておく

同じ経験をしても同じ感情を抱くとは限らないのだ

「絆」

「ひとつになろう」

「がんばろう」

こういうのが怪しく響くのは当たり前だ

むしろその感情についての差異を話し合い、認めていくことが大切なはずだ

そこで「どうしたら伝えることができるのか」を学ぶはずだし

「人によって感じることは違う」ということに耐える訓練をする必要がある

 

ただ難しいと思うのは義務教育では感情の種類が知れているということだ

わたし自身この歳になってやっと自分の感情に敏感になってきた

子どもにとって「団結はきもちいい」を学習することは大切なことなのかもしれない

また伝えることもかなり難しいことだということ

わたしだってできる気がしない

これは要求が大きすぎるのかもしれない

 

それにしても、あのときわたしは悲観的になるべきではなかった

操作ができるということは自分も操れるということだ

楽しくない人生を送っている人は楽しくする努力をしていないということだ

(これは努力を賞賛するものではないし、楽しくない人生を否定するものでもない)

努力とは嫌なことに耐えるためにするものではないと思う

より良いものを目指し、策を講じて自分を罠にはめること

これが幸せになるということだと思う

 

では「楽しい」とは何なのか?

これが難しい問題である

これについてはページを改めよう

あなたへ

親愛なるあなたへ

 

あなたは教えてくれた

わたしが好きな人と身震いするくらいの大きな幸せを感じてよいということを

その価値のある人間であるということを

 

本当はそんなこと当たり前なはずなのにな

 

わたしは不幸せに魅せられてしまっていた

暗い孤独の中で油くさく影絵を愉しんでいた

 

そんなわたしをみつけてくれたのがあなただった

まるで陽のもとへ引っ張りだされたよう

 

それからいつもあなたに精一杯応えようとした

そしてあなたはわたしを必ずみてくれていた

 

そんなあなたが幸せになる

 

こんなにうれしいことがあるのだろうかと思って

赤ん坊みたいに思いっきり泣いてやった

 

わたしはわたしの人生をこの幸せのもらい火をたよりに進もうとしている

壁にぶち当たってもまたここに戻ってくる

 

親愛なるあなたへ

 

どうもありがとう

どうかお幸せに