失敗を引きずること-子どもの環境
なぜ失敗を引きずるのか。
一つにはその人間の世界のサイズが関係してくると思う。
閉鎖的な環境での失敗は致命傷になってしまうことがある。
いや、他に解決・回避の方法があるのに致命傷を喰らった気になってしまう。
落ち込んだときに自転車で海岸に行ったことがあった。
水平線を見て「海ってでかいな~」と思った。
空を見上げて「空もでかいな~」と思った。
そうすると悩んでいたことが小さくと思えたことがあった。
こういうイメージ伝わるだろうか。
そして、引きずる要因の一つとして孤立がある。
感じた思いを言葉にして外に出せないと嫌な感情が頭の中で膨張し始める。
次第に心がゲンナリしてくる。
そうすると身体も動かなくなってくる。
そうなれば悪いことしか考えることができなくなる。
僕がよく陥るパターンだ。
・落ち着ける居場所を持つ。
・所属コミュニティーを複数持つ。
これが失敗を引きずらない必要条件だと思う。
マイナスの経験をすることはあってもこの二つがあるのとないのとでは違う。
これを今の子どもに当てはめてみるとなかなか厳しいものがある。
世界を大きくすることは自分の力だけではちょっと難しい。
行動範囲もそれなりだろうから。
所属コミュニティーも家庭、学校、部活、習い事くらいではないか。
一つ上手くいかないときはもう一つを頼るということを大人はするだろう。
しかし、子どもたちにはなかなかできることではないと思う。
僕も部活が嫌で行けなくなったとき、学校で生きた心地がしなかった。
コミュニティーの構成員がほぼ同じだからである。
一つ失敗すると他に響いてしまうのだ。
幸い家庭が平穏だったがこれで家庭に問題があればどうなっていたかしれない。
他の逃げ道として「好きなこと」に逃げるという方法もあっただろう。
本が好きな子は本に熱中して忘れてしまえばいい。
僕はゲームが好きだったけど時間を決められていたのでだめだった。
(んー、ゲームはやっぱ時間決めないとだめかもな)
いつも上手くいくなんてものはめったにない。
そして、上手くいかないときはとことん上手くいかないものだ。
そんなとき上手く自分を休ませる場所があったらいい。
風向きが変わったらもっかいやってみようと思えるならもっといい。
失敗
ボランティアに行ってきた。
待ち時間に不登校の子どもについて話していた。
そこで先生からこんな言葉が飛び出た。
「経験がいつもプラスにはたらくとは限らない」
一瞬ハッとしたが冷静に考えれば当たり前のことだ。
よくない経験をすればマイナスに向かうこともある。
自分にも思い当たる。
小学生のとき挙手をして答えを間違えてしまった。
前に座っていた子が振り返って「違うよ」と言って嫌な顔をした。
僕は泣いた。
僕は「間違えると嫌な顔をされる」という経験をしてしまった。
答えが分かっていても挙手をしないようになったし、指名されるのがとても嫌だった。
中学生のときにクラス委員をやっていた。
クラス委員は始業の号令「起立、礼」をかける。
僕は「起立」の「り」が上手く言えなかった。
「り」が「でぃ」になってしまうのである。
その度に隣の女子が後ろの女子を顔を見合わせて笑う。
たぶんこっちが気づいているのを知っていただろう。
これが毎日10回ある。
だから「り」が言えるがどうかに要らぬ神経を使うようになった。
ホント嫌だったし、そいつを今でも恨んでいる。
僕は「失敗すると笑われる」ということを経験してしまった。
そういう経験があって間違うこと、失敗することが嫌で仕方がない。
だからこそ色々な挑戦から逃げてきた。
失敗から立ち直れないタイプの人が若者に増えていると聞く。
自分もそのうちの一人だ。
「間違えてもいいんだよ」
「失敗してもいいんだよ」
これをもっと早く大人に言って欲しかった。
自分へ
「嫌って言え」
「恥をかけ」
遅刻の言い訳
今日遅刻した。
頼まれていたことをすっかり忘れていて時間になって連絡が来た。
「今どこいんの?」
「家です」
「何してんのおおお!」
それから家をすぐ出発した。
信号待ちで電車の時刻を確認。
「あ~。走っても意味ないわ」
ということでゆったりと約束の地へ。
道中自分の頭が言い訳を自動で、しかもフル回転で考えている。
「カレンダーにいつも赤字なのに黒字で予定を書いてしまったから」
「試験が近くて頭が一杯でした」
「頼まれていたもう一個の約束と間違えていました」
「結婚式の出席・欠席の返事の締め切りが差し迫ってまして」
と頭の中で色々考えて
「君、そんなんじゃ困るんだよ」
と相手に怒られるシュミレーションを繰り返す。
そして、自分の中の一人が
「つまらん言い訳すんなよ」
と一喝して頭が考えるのをやめた。
(結局怒られませんでした。)
僕は遅刻をあまり気にしない人間なので~と言うと語弊があるか・・・
相手に待たされることが嫌いじゃない人間なので、本心では待たせることもさほど悪いとは思っていない。
でも、相手に嫌な思いをさせたくない、信用を落としたくないからなるだけ遅刻はしない。
「社会人になったら遅刻は許されない」
これを最初に言った奴には角材の上に正座させて膝の上にでっかい石をのせたい。
足に角材が食い込んでさぞ痛かろう。(拷問具)
てか遅刻に厳しすぎることに怒ってるのか、「社会人云々」って言い方に怒ってるのかよくわからんくなってきた。
まあいい。
人間だから遅刻するわけですよ。
そのときにどういう風に対応するかというのは大事だなと思いました。
上みたいに「カレンダーに予定を赤字じゃなくて黒字で書いてた」
なんて言ったらもう「こいつ大丈夫か」と思われます。
少なくとも「ああ、それならば仕方ない」とはならんでしょう。
「電車が遅延した」「事故に巻き込まれた」とかならばその場はどうにかなりそうですね。
でも、それがばれたときのリスクが大きい。
うん。言い訳せずに謝って遅れた分がんばるのが一番です。
遅刻すると、
・言い訳を驚くほどのスピードで考え出す。
・残された時間をどのように使うかかなり真剣に考えられる。
ってのが本日の気づき。
まあ人生ごと遅刻してる訳だし、1時間や2時間くらい多めにみろという話です。
ブログの嫌な思い出
ブログ開設した。
いきなり嫌な思い出とか書くのもどうかと思うが書いておこう。
高校時代にはじめてブログを開設した。
というのも「某ブログをやるとお金がもらえる」と書いてあったからだ。
無論そんな上手い話はない。
いや、僕が面白いことを書ける人間ならば可能だったのかもしれないが。。
とりあえず深く考えずにブログをやることにした。
結局のところネタが続くか否かが問題だとすぐに気づいた。
そこからどういうネタでいくかを考えた。
確か日本語学習者のサイトを発見して「変な例文」を載せていた気がする。
当分ネタには困らないとは思ったがすぐに飽きてしまった。
そんな感じですぐに放置した。
しばらくしてからクラスの友人とサイトの運営をすることになった。
技術的なものはPCに長けた二人の友人がやってくれたので僕は特に何もしていない。
メインコンテンツは数学の問題集の回答をアップロードしてあったことだ。
問題集には詳しい回答がないので、それは一部の人は重宝しただろう。
上でも書いたが僕は技術的に何もできなかったのでブログをやることにした。
毎日学校であったことを日記のように書くのである。
最初はそれなりに楽しかったし、人気者になった気がした。
しかし、次第に重荷になってきた。
僕はものを書くのに非常に時間がかかる人間で、毎日遅くまで書いていたことで高校生活に支障が出た。
ネタがなくなってくると余計に時間がかかる。
そして、学校に行くと日記に関してあれこれとダメ出しをされた。
次第に何のためにがんばってるのかがよく分からなくなってきた。
いい加減辛くなったのでやめた。
簡単に言うとブログで嫌なことは、
1.書くことがなくなる→身を削ることになる
2.嫌な反応をされる
この二つか。
1は習慣しだいであると今になって思う。
毎日書くのは流石にきついけど、身の周りに関心をもってやることは自分のためになるはず。
このブログは毎日はやらないつもり。
2の解決はスルースキルか。
腹立たしいことに何もしてないのに好き勝手言うんだよ。
言わせておくのがよいのかな。
どうせすぐやめるだろうけど、ツイッターに連動させるつもりなので真面目になんねえとな。