クリダマ

「クリダマ」とは「クリームチーズのダマ」の略。ブログ開設時たまたまレアチーズケーキを作っており、何も考えずに冷蔵されていたクリームチーズを使ったらダマになってしまった。レアチーズケーキを作ろうと思わなければ、おそらくダマになることなんて知らなかったろうに。そういう感じのブログ。

感情に関するあれこれ

「自然な」感情なんてものがあるとはわたしは思わないのだ

ふと湧き上がる感情というものの存在は認めた上での話ではあるが

 

人間の行動は感情が原動力であったりする

人に褒められてうれしかったこと

怒られていやだったこと

ひとりぽっちでつらかったこと

 

そういうことが積み重なって自分の行動、ひいては生き方が作られていくのだろう

 

そこでわたしは思ったのだ

抱いた感情は「誰かにつくられたものではないのか」ということを

そう思った瞬間に人生に冷めてしまったのだ

 

突然だがわたしの昔話

大学1年のとき授業に行かずギャルゲーをやっていた

ギャルゲーには泣きゲーというジャンルがある

それなりにボリュームがあったのでアパートにひきこもってボロボロ泣きながらやっていたのだが、疑問に思うことがあった

 

「何故泣いているのだろうか?」

「何故感動しているのだろうか?」

「そもそも感動とは何だろうか?」

 

感動させるにはパターンがある

つまり、導きたかった結論を言えば「感動はつくれる」ということである

 

極論、自分で考えて行動しているはずが、特定の感情を抱く経験をすることでその感情に支配される

そういうことが義務教育でなされていたのではないかと考え始めた

 

「力をあわせる」

「団結」

「なかよく」

 

こういった言葉が非常におそろしいものに感じられた

 

しかしながら、「教育とはこういうものなのではないか」という理解をもてたのは幸いだ

社会においても、みんなで協力する人間が多い方がいいような気がするし

他人が同じ体験で同じ感情を持っていると分かれば安心する

 

それでもこの合理性に疑いを持たないのは間違いであると言っておく

同じ経験をしても同じ感情を抱くとは限らないのだ

「絆」

「ひとつになろう」

「がんばろう」

こういうのが怪しく響くのは当たり前だ

むしろその感情についての差異を話し合い、認めていくことが大切なはずだ

そこで「どうしたら伝えることができるのか」を学ぶはずだし

「人によって感じることは違う」ということに耐える訓練をする必要がある

 

ただ難しいと思うのは義務教育では感情の種類が知れているということだ

わたし自身この歳になってやっと自分の感情に敏感になってきた

子どもにとって「団結はきもちいい」を学習することは大切なことなのかもしれない

また伝えることもかなり難しいことだということ

わたしだってできる気がしない

これは要求が大きすぎるのかもしれない

 

それにしても、あのときわたしは悲観的になるべきではなかった

操作ができるということは自分も操れるということだ

楽しくない人生を送っている人は楽しくする努力をしていないということだ

(これは努力を賞賛するものではないし、楽しくない人生を否定するものでもない)

努力とは嫌なことに耐えるためにするものではないと思う

より良いものを目指し、策を講じて自分を罠にはめること

これが幸せになるということだと思う

 

では「楽しい」とは何なのか?

これが難しい問題である

これについてはページを改めよう